2016年7月25日月曜日

夕闇と夕暮れのあいだに



暑中お見舞い申し上げます。
夏のてっぺんも過ぎゆくこの頃、まだまだ厳しい暑さが続きますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
街中の木々たちはそろそろ疲れた緑色をその葉にのせて、すこしだけ冷たい朝夕の風が秋の気配をうっすらと感じさせ始めている。

たまには本気の速度で文章入力をしないと、タイピング能力がなまってしまいそうで怖い。
知らない間にどんどん体力も筋力も落ちていくし、おしりのお肉なんかは、数年前から重力に逆らうことを完全に放棄しています。(応援はしている)
それでも毎日、無意識の中で息をしたり鼓動を打ったりしてくれている肺や心臓さんたちには、感謝の気持ちでいっぱいです。
いつもありがとう、おつかれさま。


先日、お友だちのお家にお邪魔して、美味しい手作りピザをいただき、ちいさなお子さんとたっぷり遊ばせてもらってきました。
二歳と三か月、体重は13kgの男の子。元気をたくさんもらいました。
ほんとに可愛いくて、とてもとても癒された。

子どもを可愛いと思う理由、無邪気でいい、とか、純粋だから、とかいう人もいると思うけれど。
私なら、未来があるから、と答える。
どんなふうに育っていくんだろう、と想像するだけで、わくわくする。
それだけで、かけがえのない、たからものをいただいているような、そんな気持ちになります。

それに、育児をしている両親の姿を見るのも、案外好きなのかもしれないと思った。
ご夫婦どちらとも、子どもを持つ前からのお付き合いなので、そんな二人がお子さんの前では父親と母親の顔になるのを見ているのも、なんとなく、和まされました。

普段はあまり聞かないような、いろんなお話をたくさん聞けて、とても楽しかった。
結婚指輪についての価値観も、衝撃的というか、目から鱗、でした。
私の周りの友人夫婦は中々に個性的で、皆それぞれ大切にしているものが違っていて、すごく素敵だし面白いなと思う。
その結晶である子どもたちも、皆それぞれに個性豊かに育っていくのだろうと思うと、とても楽しみです。

もっといろんなことを話したかったけれど、やっぱりお子さんの微笑ましい姿に目が行って会話が中断しちゃうのは、致し方ないのかもしれない。
(その中で要点を押さえてコミュニケーションできるスキルはまだないし、あったとしてもオチビチャンの可愛さには勝てないだろう)


それにしても、毎日育ち盛りの子どもと向き合っているお母さん、本当に大変だなあと思いました。
あんなに元気はつらつな生命体の相手をして、お買い物に行って、ご飯を作って、お掃除やらお洗濯やら、家のことを何から何まで片付けて、旦那さんともコミュニケーションをとって、親戚とも付き合って、家計のことも、将来のことも考えて…って、スーパーウーマンすぎる。
その中で、自分の時間を作るのなんて、果たして可能なんだろうか?
お出掛けしても、歩くスピードだって子どもに合わせてあげなくちゃいけないし、お家のなかでも、ゆっくりお手洗いにも行けない。
子育ては、私が思っている何倍も何十倍も、大変なんだろうなあと、実感し、心の底から尊敬した一日でもありました。

子どもを持つかどうかは別にして、私には、もうしばらく無理そうだな…。
まずは自分の面倒を自分で見られるようにならないといけないし、とりあえず、自分の身体を維持するための体力と筋力を付けたいと思います。(とくに腰)


最近、人とうまく話せないな、と思う時が多くなってきました。
ちょっとした会話が出来なかったり、うまく言葉が出てこなかったり、すぐに緊張したり混乱したりしてしまうような気がする。
どう感じている、だとか、どう思っている、だとかを、自分のなかでしっくりくる言葉を以て表せなくなってきたり、そもそも、どう感じているのだろう、と、わからなくなったり、するときもあります。

何も思わない、感じないならそれでも良い、と、自分に許可は出しているのだけれど、そういう訳でもなくて、思っていることを素直に口に出すことを、すこし恐れている。
一度怯えてしまうと、誰にも会わなくなりそうで、どこにも行かなくなりそうで、それもまた怖い。
そういうところでまだ、既成の概念に囚われている。

言葉を選ぶことに関しては、後からゆっくり反芻してみて、ああ、ほんとうは、こう思っていたのにな、こういう風に言いたかったんだろうな、と気付くことも、よくある。
昔は多すぎるほど言葉を詰め込んで、説明に説明を重ねていたけれど、この頃は言葉足らずだったなあと後悔することが多くて、コミュニケーション自体に、とても臆病になっているように感じます。


そんなときに、松浦弥太郎さんの文章がこころに沁み入るようで、思わず何度も読み返してしまう。
最近読んでいるのは、『あたらしいあたりまえ。』という一冊。

ゆっくりで良いんだ、無理はしなくて良いんだ、と。
いやなものは、いやで良いんだ。
受け入れられないものは、受け入れられないで、良いんだ。

自分の速さで、歩いて行って、良いんだ、と。
励まされながら、日々、暮らしています。
必要以上に拒んでしまったり、頭や身体やこころが固くなったりしないように。
『自分なりの尺度で付き合う』ということを、大切に出来ればと思う。

やはり今年は、いろんなものごとに、出会いなおしていく一年なんだろうな、と思います。
自分が手にしているもの、周りのひとたち。
目の前のことや、自分の置かれている状況。
どんなものごとに対しても、ひとつずつ、自分なりに切り取って、感じたり考えたりしていけるといい。

このコミュニケーション下手も、どうやって、ましにしていこうかな。
もしかしたら、会話以外のコミュニケーションに頼っても良いのかもしれないし、言葉や文章以外の表現を求めているのかも、しれない。
ひとつひとつ、自分の頭で考えて、試してみて、最後までじっくり付き合っていこうと思います。


きっと、もっと、心から伝えたいことがあるんだろうな。
その本質に、すこしでも手を伸ばして、近付いていこうと思う。
暁の空に吹く風は、もう、冷たくなってきている。
夜が明けたら小さな舟に乗って、ひとりきりで旅に出よう。

十中八九、父親のことが大きいのだろう。
まだまだ不安定だなあ、と思うことがよくあるけれど、それは自分自身と対話するための、大切な時間でもある。

毎日、『同じこと』や、『違うこと』に、何度も気付きなおしてゆく。
あたらしい発見の連続は、終わりもないし、答えもない。
正しさも、悪も、他人も、一切存在しない。
自分と向き合うことは、こんなにも、ひとりぽっちで、気の遠くなるような果てしない作業なのだ、と。
今まで知っていたようで、まったく知らなかったのかもしれない。

だけれど、いま、いちばん為すべきことのような気がしている。
だから、まだしばらく、このままでいようと思う。
くるしいけれど、つらいけれど、必要なことだから、どことなく心地良く感じる。
大切な時間を過ごさせてもらっていることに感謝しながら、一日一日を大切に生きていきたい。


身体じゅうの熱が冷め切らない、夏、だもの。
炎天下のジェラートのように、音もなく、溶けていってしまいそうです。



追記:
お蔭様でzoozooseeのライブも無事に(?)終わりました。
観に来てくださった皆様、いつも本当にありがとうございます。
CDもたくさんの人に聴いてもらっているみたいで、深謝の限りです。

暫くは、大人しくしています。
また目立ったことをするときは、お報せします。

その際は、どうぞよろしくお願いいたします。



2016年7月6日水曜日

七月の腫れ/骸の上



やるべきことがたくさんある、大体そんなときに限って体調を崩します。
力まず焦らず、のんびりいきなさい、と、誰かに言われているのかも知れない。

夏風邪に限らず風邪の治し方をいまひとつ理解していないので、
とりあえず身体を暖かくして、眠って、水分をたくさん採って、眠って、
汗をかいたら着替えて、というのを繰り返しています。
ようやく少しはましになって来たんだけれど、連鎖するように別の体調不良も到来してしまい、
湯たんぽのハリー君をスタンバイさせつつ、今年の下半期は瀕死状態で始まりました。


梅雨に入り、いよいよ夏も本番、皆様お元気にされていらっしゃいますでしょうか?
熱に魘されている間に、百箇日も、なんとか無事に終わりました。
四月五月と色々慌しくて何もできなかった分、また今月も、
月命日に合わせて、馴染みの居酒屋さんへ顔を出そうと思う。
(それまでにこのあいだ借りた分厚い歴史の本、読み切れるかしら)


さてさて、忘れないうちに告知を。
今週末、7月9日(土)に、zoozooseeのライブがあります。

場所 扇町Para-dice
開場 18:00
開演 18:30
前売 1000円(+お飲物代)
共演 バスクのスポーツ(東京)、ときめき☆ジャンボジャンボTRIO、タンタラズ、awl


我々は約5ヵ月ぶりのライブ。
前回ご一緒した東京のバンド、バスクのスポーツという恰好良いバンドさんも対バンです。楽しみ。
このあいだはベロベロに酔っちゃったから、今回はあまり飲みすぎないように、
私とりゅうちゃんとちはるくんの酒癖悪い3人の間では、協定を組んでいます。
果たして守られるのかどうか…りゅうちゃんは守らないだろうな…。

そしてなんと、はじめての音源を作っています。
個人的には最高にぼろぼろの時期に録音しましたが、
今回エンジニアもしてくれているベースちはるくんの敏腕MIXや、
ギター櫻井さんの超絶重ね技を駆使してもらったお陰で、
とてもいい音源に仕上がったと思います。

もちろん高山さんのクールでタイトなドラムも、りゅうりゅうの切ないボーカルも健在ですが、
音源にすることで歌詞が判るようになって、私とちはるくんにいじり倒されています。
私も少しだけコーラスを入れさせてもらった。久しぶりの声録り、面白かったです。
(ちはるくんはきっといいエンジニアさんになると思う)

4つの楽器の演奏を一発録りするのは難しかったけれど、
1つずつ重ねて録音していくのとはまたぜんぜん違って、ものすごく一体感が出ていて、
どの曲も雰囲気や空気をそのまま閉じ込めた、素敵な音源になりました。

CDのジャケットも、zoozooseeの元ドラム&元ベースのたいへいさんが描いてくれて、
こちらもバンドで奏でる音楽の世界観が表れた、すごく恰好良い絵で飾ってもらえることに。
元ベースのりょうさんも、子育てをしながらいつもあたたかく見守っていてくれているし(勝手にそう感じている)、
大好きなメンバーと一緒に、たくさんのひとの力を借りて生まれた音源を発表することができて、
心の底から、喜びを感じています。


そしてそんな愛に溢れた音源を、試聴することができます。
もしお時間良かったら、是非聴いてみてくださいね。

◎zoozoosee soundcloud↓
https://soundcloud.com/user-194121137/mix



とても居心地いい仲の良さを感じながら、その中で自分の音を表現できる幸せを感じながら、
いつものびのびと、自由気ままに、演奏をさせてもらっています。
昔みたいに、音楽を自分の生活の中心に置くことはなくなったけれど、
それでも、バンドや音楽に対する愛情には、一定の熱量があると思っている。

そうか、気持ちがなくなったわけじゃなくて、かたちが変わっただけなんだ。
いままで、それをうまく受け入れられなかったんだ。
ただ、それだけなんだ。

ああ、いま、ふと、すごく大切なことに気付けた気がします。笑
きょうはブログを書いていてよかったなあ、なんてね。



このところはずっと、やさしさについて考えています。
人の数だけ、やさしさの種類があるのだなあと、思わずにはいられない。
其処には、正しさも、悪もない。
ただ、いろんなかたちの、いろんなやさしさがあるだけ。

やさしい、やさしさ。
やさしくない、やさしさ。

やさしくしない、やさしさ。
やさしい人と思われたいがための、やさしさ。
やさしさに隠された、下心。
やさしくしていないのに、やさしさと思われてしまう、やさしさ。

言葉のはしっこや、微笑む口もと、投げかけられる目線、会話の空白から滲み出る、やさしさ。
並んで歩く距離や、手のひらの温度や、髪の触れ方でわかる、やさしさ。

そのひとの持つやさしさが、ぴったりと今の自分にあてはまるとき、
なにも不必要に甘えたり、寄り縋ったり、求めたり、しなくていいのだろうと思った。
自分自身や相手に不安になることも、それほどない。


いまの私は、これまでに出会ったことのないような、
想像以上に途方もないやさしさと出会って、躰も心も、身震いしています。
(そのせいで風邪をひいたのかも知れない、とさえ思う)

まるで、良く晴れわたった、見晴らしのいい丘の上に立って、心地よい風に吹かれているような。
遠くまで見渡すことができるその中で、地平線まで、ただひたすらに、
緑色した草原と、青い空が続いているような。

私もそんな丘のような、果てしない無償のやさしさに抱かれて眠り続けたなら、
すこしはやさしくなることができるのかしら。

(たまに、この空はどこまで続くのだろう、と思うときもあるけれど)


いつも、いろんなひとの、いろんなやさしさに、恵まれて、支えられて、生きている。
やさしさからたくさんのことを教わって、力を貰って、前を向くことができている。

出会ってくれて、ほんとうにありがとう。
やさしさ、は、そのひとそのもの、なのかも知れないね。


いろんな所に行って、いろんな景色を見て、いろんなものを生み出していけると良いね。
自分が変わっていくことを恐れずに、そのやさしさに、身を委ねていたい。

そう、身を委ねてもいいんだ、と思えたこと。
とてもとても、大きな変化だと思います。


とりあえず、週末のライブまでには体調を戻そう…久しぶりに、お菓子もたくさん作りたいし。
そろそろお饂飩以外のものも食べたいけれど、もうしばらくは、がまん。

しっかり休んで、ゆっくり眠ります。おやすみなさい。



2016年6月20日月曜日

敬天愛人



シンプルに暮らしていきたい、と、よく思います。

それなのに、知識ばかり詰め込もうとしている私の脳みそ(溢れかえる情報を詰め込むよりはましか、と思わなくもないけれど)、
好きなひとから教わることなら何でも、そのひとが生きている限り、
なるべく近くで感じながら、受け止めながら、過ごしていきたいと思う。

巷にあふれる有名なひとたちの言葉もすばらしいけれど、
しっかりと手を握って、ときには肩を抱き締めてくださって、
目と目を合わせながら、ひとつひとつの言葉を胸に届けてくれる存在がいること。
そこに、強く強く、生きているひとがいるということ。

身に余る享受だと、いつも思います。
どのように還元できるのだろうか、と思っても、良い知恵が浮かばなくて、
多分に、そわそわしています。

ひさしぶりに曲を作った。
それがどういう意味を成すかは、わからない。
ただの、ただの表現だということを、自分ではまだ、理解できないらしい。

もらった言葉のすべてを血肉にするには頭が足りないかもしれないけれど、
与えてもらったことは身体の中にすべて入り込んでこれからの私を造っていくだろう。
それは今までの経験や、今まで出会ったひとたちの存在も、同じこと。
言葉は、言葉でしかない。
気付いたのなら、そのことをたいせつにして、生きていきたいと思う。

今は、今でしかない。
そういうことです。

此処で、このように文章を書くということは、
文章では表しきれない想いを損なっているということ。
世界は万能ではない、もちろんこの身も。
一生のうちに会えるひとは限られているし、過ごす時間も限られていれば、行ける場所も限られているし、聴くことのできる音楽も限られている。
手に入れられるものも、交わす言葉も、触れる体温も、覗き込んだ瞳の奥も。

なんてね。
なんだか破廉恥。
いっとう好きなひとに於いては、その総てを曝け出すことは末までないから、余計に。


そういえば、久方ぶりに顔本を覗いたら、四月のお誕生日にメッセージをくださった方々がいらっしゃって、今日の今日まで気付かなくてすみません。
多大なる失礼を改めてお詫び申し上げます。
(ほんとうは暫くの間、アプリを消していました)

それでも、長いことお会していないひとと、電波ではあるものの言葉を交わして、身を案じ合うことにも、それはそれで癒されるものです。

お蔭様で、無事、三十路に成りました。
いつもいつも、あたたかく見守っていてくださって、本当にありがとうございます。
またご縁がありましたら、いつかどこかでお顔を拝見出来ると幸いです。



さて、順調に、後の片付けは終わっていこうとしている。
たまに、遣り切れないときもあるけれど、
自分を含めて誰のことをも責めないというスキルをこの二ヶ月半で会得したので、
それは自分の人生にとって大きなことのように思います。

泪を止めるな、と、云っていただいた。
泣きたいときは、思い切り泣け、がまんするな、と。

もう我慢はしないけれど、
贅沢は言わないように心掛けています。

ぜいたく。するかしないか、の話ではなくて、
贅沢かどうか、の話。

いつだって無い物強請りが過ぎる私には、このくらいが丁度良い。
自惚れないように、傲慢にならないように。


もう、どこにも戻らないし、どこにも行かない。
それで良いのだと思う。

私の目の前のことは、私の目の前にしか存在しない。
私の歩いてきた道は、私の後ろにしか存在しない。
そしてそのすべてを手放せるのは、自分しかいないこと。

その事実と、たいせつなひとたちのたいせつな言葉を胸に、これからも生きていきたい。




2016年6月19日日曜日

あなたのとりこ




愛に代わるものは、あるのでしょうか。
自分の内側にある烈しさが、幼いまま、かたちを成さぬまま、溢れてしまいそうです。

初めて過ごした、たいせつな一日も、失うことを恐れてしまっては、
ただ、その色が褪せていくばかりで、怖いような気もします。

もう、何も、もう、誰も、これ以上は。
悲しみに替わるものは、あるのでしょうか。


誰かが其処に、居るのでしょうか。
手を伸ばすことは、赦されているのでしょうか。


誰も答えを知らない。
死者は何も語らない。

何もないなら、何もないで良い。
不確かなものもすべて、何もかも、成仏してしまうと良い。

もうこれ以上、何にも、誰にも、
縋り付きたくないことだけは確かです。




2016年6月1日水曜日

鉄線花の下で



すっかりご無沙汰してしまいましたが、皆様お元気にしていらっしゃいますでしょうか?
季節はすっかり春を通り過ぎてしまって、蒸し暑い日が続いたり、一昨日までのようにぐずぐずした雨の初夏、昼夜の温度差などにやられ、私なんかは早目の夏バテを喫しています。


個人的な事柄ではありますが、三月の末に父が亡くなりました。
漸くふた月が過ぎ、振り返ると、怒涛、としか言いようのない日々を過ごして、まだ完璧に収束した訳ではないのですが、すこしずつ、ほんとうにすこしずつ、落ち着きを取り戻しているところです。

先日、久しぶりに友人とゆっくり会い、元気を沢山貰って、あらためて人と会うことの大切さを痛感しました。
自分のなかの生命力のようなものを、あっさり引き出してくれた友人に、こころから、感謝しています。
そして今日は、久しぶりに職場の方々とお会いして、お顔を拝見出来なかった方々とも連絡を取り合うことが出来てことが出来て、とても元気をもらいました。
また、あしたからも、がんばろうと思えた。
自分ひとりでは中々、この状態まで持ってくるのは難しかった。

この二ヶ月間にあった出来事と向き合っていくのには、まだすこし、時間がかかりそうです。
ほんとうに様々な事があって、未だに混乱している部分もあるのだけれど、こうして、また、文章を書く行為を選んだ自分を、こっそりと、褒めてあげたい。


皆、一生懸命、生きているのだなあ、と。

何かの折々、そう感じました。
至極当たり前のことなのだけれど、目が覚めるような事実のように感じた。
(私はまだ一歩踏み出せないでいる)


きょうから六月、いろいろな想いを胸に、また、あたらしく、積み重ねて、あたらしく、つくりだしていけるといいなと、思います。
終わったことに目を向けないで、前を向いて生きていく強さが、欲しい。
何度失っても、何度別れても。

性も懲りずに、
また、人に沢山、出会いたい。




2016年3月18日金曜日

御自愛



夜がすこしずつ生ぬるい風を孕んで随分と息がしにくくなってきましたが、皆様如何お過ごしでいらっしゃいますでしょうか。
真昼の日差しは思わず目を細めてしまうくらい強くて、目を閉じると、昼と夜のあいだ、冬と春のあいだにひとり取り残されたような気持ちになる。
そう感じるのは私だけだろうか。


きょうはちょっとしたお知らせ、です。
この文章を書く前に、さみしくなる報せを聴いたので、もしかしたらすこし、テンションが低いかもしれない。(文体が暗いのはいつものことかもしれない)

もうすでにご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、4月からしばらく、大阪を離れようと思っています。
理由はすべて話せないけれど、大阪を離れることが、これからの自分にとって、いちばん良い選択だと思ってるからです。

いつも突然、驚かせてごめんなさい。
また落ち着いたら戻ります。
zoozooseeの音源も作りたいし、ライブもセッションもまだまだチャレンジしたいし、だいすきな友人たちにも、すくすくと大きくなるその子供たちにも、これから生まれてくるあたらしい命にも、もっともっと、たくさん会いたい。

去ることになってから恋しく思うなんて、とんだ阿呆だとは思いますが、べつに一生の別れではないから、会いたいひとには、その時々で、きちんと会いに行こう、そして、行きたいところには、行けるときに、きちんと行っておこうと、あらためて、強く思っています。

そのためにも、一度からっぽになりたい。
離れることで見えてくるものがあるということは、去年一年間でよくよくわかっているつもりですが、いろんなものごとに、出会いなおすためにも、一度思い切って距離を置いてみようと思います。


なんだか自分でも不思議なんだけれど、この選択をしたときから、心がすとん、と、している。
まるで、あらかじめ決められていたことのような気持。
このあとどうやって生きていくかは、すべて自分次第、それもまた、なぜだかとても、たのしみなのです。(この、怖がりのわたしが!)

生まれ育った土地を離れて、これからのことを決めずに、呼ばれるほうへ、導かれるほうへ、見えない大きな力に身をゆだねて、こころの赴くままに。
いいな、と思ったほうへ、ただ、漂っていくのが、いまの自分にとっていちばん心地良いことのようです。

やりたいと思えばやればいいし、やりたくないと思えばやめればいい。
好きなものは好きでいいし、きらいなものはきらいでいい。
そして、自分のことは自分で決めて、自分で最後までやる、そんな当たり前のことを自分に教えるために、すこしだけ旅に出てきます。

またちょこちょこ、帰ってくると思います。
変わらずお相手してくださると、とてもよろこびます。


本当ならお世話になったひとたちや会いたいひとたち、ひとりひとりのお顔を見て、お礼を伝えたり、ゆっくりお話しをしたかったのだけれど、慌しくしていると時間をうまく作れずに日付だけが過ぎて行ってしまい、とても残念に思っています。
もしよかったら、三月最後の土曜日に身内で集まる機会があるので、こんな私なんぞの顔を見に来たいと言ってくださる酔狂な方(!)がいらっしゃいましたら、ご連絡ください。

こちらからお声かけさせてもらっている方もいるのですが、連絡がぜんぜん追い付かないので、取り敢えずのお知らせ。
ただ、知人のされているカフェスペースを特別に貸し切らせていただいているので、もしかしたら人数の都合などで、お越しいただけない場合もあるかも知れませんが、そのときは、また帰ってくるまで、どうぞ気長に待っていてくださるとうれしいです。

もともとはこんな大々的にするつもりはなく、自宅で無料のガレージセールのようなものをするつもりだったのですが、案外たくさんの方がご興味をもってくださり、狭い自宅では皆様にくつろいでもらえない、と思い、知人に相談させてもらって、今回特別に場所をお借りすることができました。

いつも無茶なお願いを快く引き受けてくださる、とてもやさしくてだいすきなお姉さんが営んでいらっしゃる、すてきなすてきなお店。
お茶など飲みながら、ゆっくりくつろいでいただけると幸いです。
職場の方々も駆けつけてくれるそうで、大好きなひとたちにあたたかく見守ってもらいながら、最後にこういった場を設けさせてもらえることを、ほんとうに有り難く、しあわせなことだと思います。

旅先に持っていけないものを無料で提供していますので、なにか気に入るものがありましたら、あたらしい命を吹き込んでやってくださるとうれしく思います。
お日にちが近いですが、もしお時間よろしかったら、お気軽にいらしてくださいませ。
(お時間や場所などの詳細は、ご連絡くださった際にお伝えいたします)


さてさて、きょうも長くなってしまいましたが、いつも最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
ふと、今年は、いままでよりも、たのしくなる一年のような気がしました。
どんなことがあっても、たのしめる、自分がいるから。
たのしくしよう、と、自分で決めたから。
それはとても、おおきなことだと思う。

きっと、どんな場所に行っても、誰と一緒に暮らしても、変わらないものがある。
だからいま、行けるときに、いろんなところへ行っておきたい。
できるときに、できることをやっておきたいと思う。

やりたいことも、たくさんある。会いたいひとも、たくさんいる。
遠くにも、近くにも、ずっと見てくれているひとが、たくさんいることも、知っている。

それがどんなにしあわせなことなのか。
最近やっと、雪が雨に変わるように、氷が解けて水になるように、すこしずつ、身に沁みてわかってきたような気がします。

まだまだ未熟ものの私ですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
今月いっぱいはテ○ナのライブやら、ヒョッ○コのライブやら、前田○ゅうのお誕生日会やらで、その辺に出没する予定ですので、お見かけしましたらぜひ遊んでやってくださいね。(なぜ伏字)


それでは。また書きます。
ごきげんよう。




2016年3月15日火曜日

手の鳴るほうへ

すっかりブログをお休みしてしまいましたが、みなさまお元気されていらっしゃいますでしょうか?
わたしは元気に毎年恒例・春の不調シーズンに片足を突っ込みつつ、なんとか生き延びようと毎日足掻いているところです。

二月後半からの出来事を簡潔にまとめると、
・谷町四丁目を散策した
・鈴木さんとデートした
・zoozooseeのライブがあった
・くるみちゃん、airlieちゃんのライブを観に行った
・わかばにゃんとデートした
・久々にお菓子作りを失敗した
・わかばさんのワンマンライブがあった
・今年初めて着物を着た
・ある人たちとセッションのためのスタジオに入った
・パンパトロールをした

などなど。ちょっと満腹すぎるね。
ほんとは全部、詳しく書きたいんだけれど、そのうち、時間が許せば。

近頃は気分の浮き沈みが激しくて、環境の変化も多くって、参ってしまいそうです。
きょう、やっとすこし、恢復の兆しが見えたような気がしたけれど、まだまだ春はこれからだし、油断ならない感じがします。

とりあえず、羅針盤と上原ひろみさん、このあいだのセッションの音源を聴いている。
周りの人たちに救われて、辛うじて、ちいさく息ができている。
黒いはずの髪が、すこしずつ傷んでいく。

夜中にひとり、部屋に閉じ籠ってピアノを弾く時間だけが、私をこの世に繋ぎ止めてくれている。
上手く弾けなくて、何度も鍵盤と腕を殴る。冷たい白と黒に突っ伏する。
他人から与えられる孤独を識る。そして身を以て、向き合う。
これを乗り越えられないと、誰の傍にも居られないことを識っている。

昔の様に、ひどく鬱っぽくならないのは、その向こうに、共に生きていきたいひとが居るから。
縋りたいのではない、甘えたいのではない、ただ、心の底から、ほんとうに必要だなあと思えるひとが、待ってくれているから。

いまは、ひとりで、自分と戦っているところ。
弱い自分に負けないように。
何度も挑む。何度でも。

昔と違って、何があっても負けないぞ、という気概だけはある。
なんだか色んな事がよく見渡せるような気持ちになる。
ゆっくりと春は訪れ、枯れたと思っていた植木の枝から、ちいさな緑色がすこしずつ芽吹く。

いま、苦しいときだけれど、きっとかならず、辛いことの後には良いことが待っている。
この経験はただの痛みじゃない、かならず、経験して良かったと、思える痛み。
それを識っている。

すべての物事を受け容れられる、そんな気持ち。
だから、辛いことも、辛くない。
そんな気持ち。
それも識っている自分を、ほんのすこし、頼りに思った。

いまが、いままでの人生の、集大成。
今年が正念場、なんてね。ふとそう感じた。

五黄の寅年生まれの皆様、如何でしょう?

ちょっとしたお知らせがあるので今日はこの辺で。
またそのうち書きます。