2015年9月30日水曜日

A Case of You



今日で長かった九月も終わりますが、
まだまだ孤独とは、お友だちにはなれそうにないです。
まあ友人に倣って、二年くらいかかる、とでも覚悟しとこうか。


随分昔、友人に教えてもらったJames Blakeが好きで、
Enough Thunderというアルバムを特に気に入って未だに繰り返し聴いています。
そこに収録されている中に『A Case of You』というとても美しい曲があって、
英語だからどんな意味の歌詞かも知らないんだけどずっとずっと好きで。
きょうも聴いていて、相変わらず胸にぐっとくるから、興味本位で歌詞を調べてみたら…

自殺行為でした。
こういう曲は傷心中に聴くものじゃないね。
Joni Mitchellの原曲も、淡々とした中に静かな孤独があってよかったです。
興味がある方は調べて見てね。(メールでの送信なので、映像が貼れない)
でもやっぱりJames Blakeのヴァージョンが、最高すぎて死んじゃうな。


どんな国の言葉で歌っていても、気持ちが伝わってくる曲ってありますね。
言葉の意味がわからないのに、感情が言葉を超えて飛び出しちゃうような。
好きな歌い手さんの中だと、James Blake、Edith Piaf、Sarah Vaughan、
最近だとNina Simoneとか(しっかりハマっている!笑)、
他にもたくさんそういう力を持つ歌手がいると思うけれど、本当に凄いなと思います。
逆に外国の方から聴いて、日本人の歌手の中にも、言語を超えて何かを伝えられる人もいるんだろうか。
もしいるとしたら、誰なんだろうな。美空ひばりとか、ちあきなおみとか、越路吹雪とかかな。
そのような歌を、もし死ぬまでに歌えるとしたら、それは本当に本当に素晴らしいことだろうな。


前回の日記から、またまたたくさんのことがありすぎてありすぎて、
なんだか穏やかにゆっくり過ごしたいのに、なかなかそうはいかないみたいです。
まだ手放せていないのか、そういう星の生まれなのかはわかりませんが、
若干へとへとになってきている感は否めない。あれ?今年、まだ三ヶ月あるよ…?

本当に静かに暮らしたい。
執着から解脱したい。
本当に何もしたくない。

と思うこと自体が静への執着と言われれば、もはや返す言葉もないんだけれどね。


九月、ほんとに長かった。
長月の名は伊達じゃなかった。でもいろんな人に会えた。

思わぬ人と思わぬところで再会したり(ドナドナの松尾くん、和田くんと、茶屋町で会った!)
連休中は半年振りに会う友人と心温まる交流もできたし、父親の家にも行ったし、
幼馴染とも久しぶりに会えたし、今日は二年振りに会う人やそのお子さんとも会えてとても和んだ。
全体的に楽しかったり、やっぱりちょっと、疲れたりもしました。


最近、話しているときに気分の浮き沈みが激しいと感じるときがあります。
すごく楽しくお喋りをして、楽しかった気持ちだけは残っているのに、
会話の内容を覚えていなかったり、曖昧な返答をしていたりするときがある。

まだ人と会うべき時期じゃないのかもしれないし、
たまたま人に会うのには向かない日だったのかもしれない。

そういうときは、何年も付き合っている友人と、
何もせずにだらだら話せると、ものすごおおおく、リラックス出来て良いよね。
忙しかったり、遠くに住んでいたりでなかなか会えないときもあるけどね。
なるべくそういう友だちは大切にしたい。

そんなこと考えたことなくて、ずっと一緒のトーンで居てくれる友だちのこと、
あんまり大切にできていなかったかも、大切にできていなかったなあ、と反省しています。
でも最近は反省することが多くて落ち込みがち。
お酒の失敗も多かったしね。なんだか恥ずかしい思いもしたしね。

とりあえずリハビリ(何のだ)に、十月からまた毎日ブログを更新していきます。
九月で学んだけど、ちゃんと目標的なものを決めないとやらない性質のようです。
(ちなみに九月、更新回数増やすと言いながら二回しか書いてないからね。八月より少ない)

ボリュームの目盛が0か100しかない女、升あけみ、こと、なす子、こと…
いまは誰なんだろうね。いまは私、私でしかない。

それなのに、いまが一番、自分がわからない。
何者でもない私。私がそれを望んでいた筈なのにね。
あっれ〜??おかしいな〜、蘭ねえちゃ〜ん??みたいなね。

ちーん。


超絶個人的かつ駄文、相変わらず何処となく暗めのムードですが、
(もともとそういう人間なので仕方がない)、
明日からどうぞ一ヶ月、宜しくお願い致します。


2015年9月9日水曜日

さみしさには名前がない



すっかりご無沙汰してしまいましたが、みなさまお元気でしょうか?
誰だい、8月は更新するなんて言っていた奴は。
約束を守らないと、狼女になっちまうぞ(残念ながら少女という年齢ではない)。

言い訳をするならば、私生活で色々なことが有りすぎて、
未だに追いつけていない部分もあるのですが、
ほんとうにこの一ヶ月、大変だったんですよ。面白かったけど。

大変、っていうのは、大きく変わる時期なんだなあと、
改めて体感した一ヶ月でした。

詳しく書いていくと一日仕事になりそうなので、大きなトピックスだけ残すと、
・祖父の初盆がとても印象に残ったこと
・影野わかばさんと会ったこと
・病気マサノリさん主催のキャンプに行ったこと
・もう会えないと思っていた、久しぶりの人と再会したこと
・セッションイベントに遊びに行って酔っ払ってえらいことになってしまったこと

などなど。
その間に失恋したりいろいろあったんだけれど(笑)、全体的に楽しく過ごさせてもらっています。


この一ヶ月で、たくさんの人との交流がありました。
完全に初めましてなのにも関わらず、ひょんなきっかけで深みのあるお話をさせてもらったり、
第一印象でピンときた、素敵なお姉さんに出会って楽しく過ごさせてもらったり、
今までお知り合いだった筈なのに、不思議な巡り合わせでいろんなお話ができて、
それまでまったく知らなかった新たな一面を発見したりして、
すごく面白いし、刺激をもらっているなあ、と。

二十年親交のある友人とも久しぶりに長電話をしたり、
わかばさんと4月ぶりに再会して、また大切な言葉をたくさんもらったり、
3年ぶりくらいに会う人と、昔みたいにくだらない話をして過ごしたり。

ご無沙汰していた人から連絡をもらって、また会いたいねと言ってもらえたり、
家族と他愛なく過ごす時間も、大切だと思えるようになったり、
そういった出来事も、しっかり心の栄養になっています。

変な話なんだけれど、最近は、『桜重奏の升あけみ』や『ワニのいる生活のなす子』としてではなくて、
割と生身の自分に近いスタンスで人脈が拡っていく感覚が新鮮で、楽しいです。

肩書きや役割にとらわれないで、そのときに自分が興味を持った人と過ごすこと。
案外不得手なことだったのかもしれないですが、その拙さも楽しんでいる自分がいます。
人と交わることで、今まで知らなかった自分に出会っていくことも、
ただの人間としてありのままの存在としてぶつかっていくことも、
臆病だからまだすこし怖いけれど、だんだんと慣れていけたらいいなと思います。


話は変わりますが、最近は、孤独について考えています。
いままで、自分のなかにあるさみしさは、誰かとさよならをしてしまったことで出来た空白のなかにしか存在しないものだと思っていて、
ずっとそれに囚われているということは、ほんとうの意味で、
その誰かから離れられていないということなのかな、と思っていたんだけれど。

どうやらさみしさにはもうひとつ、生きている限りひっそりとそばに寄り添う孤独感というものがあって、
(もしかすると死んでからも存在するのかもしれないけれど、死んだことがないのでわからない)、
そのさみしさは、多分、どんなに愛する人に抱きしめてもらっているときでも、一緒に暮らしてずっと側に居たとしても、
一生消えないものなんじゃないのかしら、という気がしています。

そしてそのさみしさは、決して消えることのない痣のようなもので、
お化粧で隠したって、上からタトゥーを入れたって、そこに存在し続けているという事実は変わらなくて、
消したり埋めたりするんじゃなくて、うまく付き合っていくしかないのかな、と。
そしていつの日か、さみしさと真正面から向き合って、
どこへでも一緒に遊びに行ってくれる親友にまでなれるといいなと思います。

けっこう時間はかかりそうだし、気付くのが遅い気もするけど、
気付けただけまだまし、ということにしておこう。笑


もし孤独と仲良くなれたなら、意味もなくいろんな人に甘えたり縋ったり、
必要以上に誰かを好きになることもなくて、
それによって不本意に誰かを傷付けるようなことも、なくなるのかな。

それともこの性分は生まれ持ったもので、
死ぬまでずっと続くものなのだろうか?
オーマイガー。


長く降る雨の所為で、変なこと考えてしまうねー。
はやくお日さまの顔が見たいな、洗濯物が乾かない。

九月も不定期更新でよろしくお願いします。