2016年6月20日月曜日

敬天愛人



シンプルに暮らしていきたい、と、よく思います。

それなのに、知識ばかり詰め込もうとしている私の脳みそ(溢れかえる情報を詰め込むよりはましか、と思わなくもないけれど)、
好きなひとから教わることなら何でも、そのひとが生きている限り、
なるべく近くで感じながら、受け止めながら、過ごしていきたいと思う。

巷にあふれる有名なひとたちの言葉もすばらしいけれど、
しっかりと手を握って、ときには肩を抱き締めてくださって、
目と目を合わせながら、ひとつひとつの言葉を胸に届けてくれる存在がいること。
そこに、強く強く、生きているひとがいるということ。

身に余る享受だと、いつも思います。
どのように還元できるのだろうか、と思っても、良い知恵が浮かばなくて、
多分に、そわそわしています。

ひさしぶりに曲を作った。
それがどういう意味を成すかは、わからない。
ただの、ただの表現だということを、自分ではまだ、理解できないらしい。

もらった言葉のすべてを血肉にするには頭が足りないかもしれないけれど、
与えてもらったことは身体の中にすべて入り込んでこれからの私を造っていくだろう。
それは今までの経験や、今まで出会ったひとたちの存在も、同じこと。
言葉は、言葉でしかない。
気付いたのなら、そのことをたいせつにして、生きていきたいと思う。

今は、今でしかない。
そういうことです。

此処で、このように文章を書くということは、
文章では表しきれない想いを損なっているということ。
世界は万能ではない、もちろんこの身も。
一生のうちに会えるひとは限られているし、過ごす時間も限られていれば、行ける場所も限られているし、聴くことのできる音楽も限られている。
手に入れられるものも、交わす言葉も、触れる体温も、覗き込んだ瞳の奥も。

なんてね。
なんだか破廉恥。
いっとう好きなひとに於いては、その総てを曝け出すことは末までないから、余計に。


そういえば、久方ぶりに顔本を覗いたら、四月のお誕生日にメッセージをくださった方々がいらっしゃって、今日の今日まで気付かなくてすみません。
多大なる失礼を改めてお詫び申し上げます。
(ほんとうは暫くの間、アプリを消していました)

それでも、長いことお会していないひとと、電波ではあるものの言葉を交わして、身を案じ合うことにも、それはそれで癒されるものです。

お蔭様で、無事、三十路に成りました。
いつもいつも、あたたかく見守っていてくださって、本当にありがとうございます。
またご縁がありましたら、いつかどこかでお顔を拝見出来ると幸いです。



さて、順調に、後の片付けは終わっていこうとしている。
たまに、遣り切れないときもあるけれど、
自分を含めて誰のことをも責めないというスキルをこの二ヶ月半で会得したので、
それは自分の人生にとって大きなことのように思います。

泪を止めるな、と、云っていただいた。
泣きたいときは、思い切り泣け、がまんするな、と。

もう我慢はしないけれど、
贅沢は言わないように心掛けています。

ぜいたく。するかしないか、の話ではなくて、
贅沢かどうか、の話。

いつだって無い物強請りが過ぎる私には、このくらいが丁度良い。
自惚れないように、傲慢にならないように。


もう、どこにも戻らないし、どこにも行かない。
それで良いのだと思う。

私の目の前のことは、私の目の前にしか存在しない。
私の歩いてきた道は、私の後ろにしか存在しない。
そしてそのすべてを手放せるのは、自分しかいないこと。

その事実と、たいせつなひとたちのたいせつな言葉を胸に、これからも生きていきたい。




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