2015年10月2日金曜日

善と悪


最近、浄土真宗に興味があって、開祖である親鸞について書かれた本をすこしずつ読んでいます。
昔の言葉で書かれているものを難しい言葉で解説しているものが多いから、
だいぶわかりにくいなー、っていう印象を受けていたんだけど、
いま読んでいる吉本隆明さんの『今に生きる親鸞』という本がものすごくわかりやすくて、
内容はもとより、そのわかりやすさにびっくりしています。中学生でも読めるんじゃないかな。


浄土真宗は、それまで一部の人(お坊さんや偉い人)たちに限られて伝達されていた仏教を、
一般の人たちにもわかりやすく、付き合いやすく、みんなが信仰できるようにした宗教で、
今までは苦しい修行をしたり自分を窮地に追いやったり、
善い行いをたくさんすることでしか、浄土へは行けませんよ、というのを、
いやいや、念仏を唱えれば、誰でも浄土へ行けますよ、と、
仏教をオープンでウエルカムな雰囲気にしたものだと思っています。
(かなりざっくばらんな説明だけど)

親鸞さんも初めは修行をしていたんだけど、その当時は貧しい人のほうがたくさんいて、
みんな苦しみながら生きていて、楽になりたい、死んでからもしんどいのはもうイヤだ、
だから浄土へ行きたいよー、っていう人が多かったにも関わらず、
仏教の教えが限られた人のもので、なおかつ辛い修行を乗り越えた人しか浄土へ行けないなんて、おかしいんじゃね?
そもそも仏教ってのは、みんなを救いたがってんじゃね?と、違和感を感じたそうです。

だから、限られた人だとか、修業とか、善い行いとかじゃなくって、
阿弥陀如来(仏さま)は、みんなを救いたがっているから、
心から信じて、一生に一度でも思いを込めて念仏をとなえると、
自然と浄土へ行けますよー、という風に、教えを広めたんですね。

細かいことを言うともっとちゃんとしてるんだけど(当たり前)、
親鸞さんの教えは、宗教のはずなのにちょっと哲学や思想の部分があって、
知れば知るほど魅力的で、わたしは割と好きなんです。

その親鸞さんの考え方の中に、善い行いをするくらいなら、悪い行いをしたほうがいい、というのがあって、
その言葉の意味だけで捉えるとちょっと「えっ?」て感じなんだけど、
要は、誰かのために、「良い!」と思ってやったことは、
そう思った時点で善い行いではないよ!っていう意味だそうです。
そして、誰かを救うことで自分も救われたい、なんて、思っちゃダメ!とも、言っています。

まとめると、「誰かのため」にすることで、「自分」を救おうと思ってはだめですよー、
そう思って何かするなら、悪いこと(「誰かのため」じゃないこと)をやったほうが、まだマシ。
「自分がそうしたくて」やったことで、「誰か」が「自然に」救われたら、
それでオッケーじゃん、というような考えです。

きょう、ちょうどその部分を読んでいて、きのう書いた、
やさしさへの違和感のヒントになりそうだなあと思ったのでご紹介しました。
そもそも、やさしさと善行は違う。
でも、勘違いしやすいものなのかも知れないな、と。

わたしは、誰かのために何かするのが好きなほうなんだけど、
でも、なんかちょっと違うな、嘘くさいな、と自分でも感じたり、
後からそのひとの本音を聞いたりして、間違ったことしちゃったなあ、
やっちゃったなーと思ったりするのが多々あります。
親鸞さんの言うとおり、誰かのため云々と言いつつ、ちゃんと向き合ってみると、
あ、これ、ほんとうは自分が救われたいんだな、と思うこともたまにある。

善悪だけに偏った若い解釈は喪いましょう、ということです。
去年の夏に作った『菩提樹』っていう曲の歌詞にも、ちゃんと書いてあるよ。

話は逸れるけど、思い返せば、
じぶんの歌は、いつでも自分のことを知っていてくれるのに、
わたしが馬鹿だから、いつも失くしてから気付きます。
そういうのも輪廻かー、と、思わないこともない。
(案外、仏教ちっくな歌詞が多い)


と、長くなっちゃったので、きょうは此処までです。
親鸞さんの教えで、すごく好きなのが、もうひとつあるんだけど、またいつか。

もうね、iPadちゃんで入力してるから、速度が遅くて遅くて…。
そしてやっぱり、文章の構成力もだいぶ落ちてるな、リハビリしだして正解だ。

きょうもお付き合いくださって、ありがとうございます。
あしたはどんなこと書こうかな。くだらないことがいいな。


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